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政見放送に思う

 今夏、50人以上の候補者が林立し、それだけでも話題になった都知事選挙。これまでは、東京都民でない外野から見ると、良し悪しさておき、いろんな人物が立候補し都知事選は面白いなぁと思っておりましたが、今回はポスターを始め、ちょっといろんな意味で酷かったですね。

 手話通訳がつく政見放送を見た方は、手話通訳の存在が無視されている、あるいは、手話通訳者が冒涜されているような扱いを受けているのに、怒りや様々な感情を持たれたことと思います。

 政見放送は公共の電波を使って流されるので、そういう通訳者に対するひどい扱いが目に見える形でわかりますが、政見放送に限らず実際の通訳現場ではこれに近いことが、大なり小なり起きているのではと私は思います。

 

 私の経験を言うと、昔、有名なキャスターの方の講演会で、通訳者を見世物にしてからかってるんではないかと感じる場面がありました。そのときは私が通訳の番だったのですが、キャスターが、「(ルパン3世が峰不二子を呼ぶときの)「ふ~じこちゃ~ん💗」ってどう通訳するんでしょう」と言って、私のほうを見たんですね。もちろん、他の参加者もこちらを見ます。通訳としては聞こえたことを聞こえる通り、そして通訳を見ている人が分かりやすい具体的表現をするしかないわけですが、はたから見ると、それが「面白い」表現だったりするんですね。私はこの言葉で、このキャスターに対してイヤな感情が湧きました。

 もう数十年前のことなので、今とは手話や手話通訳に対する見方も変わってきているとは思いますが、先日の政見放送を見ていると、こういう扱いが完全になくなった、とは決して言えないでしょう。 

 

 このような手話通訳者への接し方に対し憤りを感じるのはもちろんですが、少し違う視点で見てみると、このような行為をする人は「損をしている」と私は思うのです。

 「損をしている」とはどういうことか。

 それは、「障害者を馬鹿にしている」「障害に対する理解がない」「多様性に理解・配慮がない」という、その人自身のイメージがマイナスの評価で見られるという点はもちろんのことですが、なにより「自分自身を知ってもらう機会を自ら損ねてしまっている」という点で、損をしていると思うのです。

pngtree.comによる画像
pngtree.comによる画像

 少し例えを出してみます。

 日本の車は世界でも高く評価されている工業製品の一つですが、この車1台を作っているのは、トヨタやホンダといった、いわゆる大手自動車メーカーだけではありません。そのネジ1本から見ると、多種多様な関連企業が協力しあって製品が出来上がっているのです。もし関連企業が雑な部品を作っていれば、世界に評価される自動車を作り上げることはできません。かかわる全社が「世界に誇る良い車を作る」という気概をもちそれぞれの役目を果たしているからこそ、良い製品ができるのです。

 私は、文字通訳も含め、通訳も全く同じことが言えるのではないかと思います。通訳をつけるということは、通訳という手段を使って、自分の人となり、考えを聴衆や相手に伝えるということです。そこでは、話者と通訳者は共同体であり、協力し合って、同じ目標を達成する必要があります。通訳者だけがどんなに頑張って事前準備をして、その話者の人となりや、話される内容について調べて勉強したとしても、話者が「通訳者と共同作業」する意識がなければ、本来の伝えたいことのすべてを伝えることはできません。せっかく通訳をつけているのに、です。そういう意味で「損している」と私は思うのです。

 

 日本人は、日常の行為で通訳を使う機会が少ないので、音声通訳も含め、通訳の使い方を知らなさすぎるのかもしれません。

 でも日本では、「障害者差別解消法」という法律ができ、営利企業であっても誰であっても、「合理的配慮」として情報保障することが「義務付けられました」。もう少し、「手話・文字通訳をつける」という意味について、考えを深める必要があるのではないでしょうか。

 個人的には、もっと通訳を、「『自らの武器』として、使いこなせるようになってほしい」と思っています。  

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コメント: 1
  • #1

    石田 英行 (木曜日, 11 7月 2024 08:13)

    同感です。
    我々も障害者の方達と接する機会が増え今まで気にしていなかったちょっとした事でも当事者の方々にとっては大変な事で有る事が改めて分かって来ました。また我々にとっては何気ない言動でも心を傷つけたり、引き込もってしまわれる原因になってしまう事に気が付き理解しあって行く活動の一環として一緒に山へ行く活動を続けて行きたいと思います。
     また色々ご指導お願い致します。