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聞こえないということ

 久しぶりのBlogになります。

 とはいえ、気づけば、お試しで始めたこのブログも、まる1年が経ちました。あっという間! 意外と続けてこられたものです。日々更新なんてことは目指しておらず、書きたい話題があったときに書くスタイルなので、マイペースな更新になってしまいますが、今後もお付き合いくだされば幸いです。また、様々コメントをくださっている皆様に感謝です。いろいろなご意見・立場があると思いますが、その多様性こそ大事なことと思っています。

 

 さて、本日の話題。「聞こえないということ」について、改めて考えたいと思います。

 よく地域や学校などで行われる「障害理解」で、「聞こえないこと」を体験することがありますよね。耳栓をして、その上にヘッドホンをつけ、何ならその上に音楽や雑音を小さな音で流して、周りの音が聞こえないようにする。確かに、周りの音や人の声が聞こえないという、聴覚障害により生じる日常の不便さや怖さを端的に体験するには良い方法だと思います。でもこれって、どちらかというと、「老人性難聴」の状態だと思うんですね。

 いわゆる、「生まれつき聞こえない」あるいは、「日本語を身に着ける前に聞こえなくなった」という方が体験する日常は、こんな方法では推し量れないほどのものがあると思います。一番分かりやすいイメージは、全く言語の分からない外国に行って1カ月過ごさないといけなくなったときの日常ではないかと思います。自分の要求・欲求が伝えられない、相手のいうことが全く理解できない、誰とも理解し合えない、そんな状況で1カ月も過ごさないといけなくなれば、皆さんどんな状態に陥るでしょうか。

 想像もしてみてください。その状況が1カ月でなく、何十年も続くことを。終わりがないことを。

 聞こえる私には、その状況を実体験することはできず、あくまで想像することしかできませんが、思うに、相当の量の情報が抜け落ちていくのではないでしょうか。そして、日々ぶち当たるコミュニケーションの壁。「また通じない」が繰り返される日常、「また分かってもらえない」が続く日々。ストレスフルであるし、様々なことを諦めたくなる心境になるに違いありません。

 

 この「日常的に抜け落ちている情報」が、山登りやクライミングにおいては、「自身の命を守る」という点で、聞こえる私たちとの決定的な差異を生み出していると感じます。つまりろう者は、意図的・意識的に情報を補足することがなければ、健聴者より高い危険に常にさらされているということになるわけです。

 

 山岳会で「登山入門講座」を開いたり、日々のガイド業務のなかで、どうすれば安全に行動できるかをお伝えしていますが、たった1日、たった数回で、その何十年にもわたる情報の欠落を埋めることはできません。「抜け落ちている」だけでなく、その限られた情報が自然には修正・加筆されていかないことの怖さ。それくらいに、幼少期から聞こえないということは、大きな障害なのです。決して耳栓をしただけで理解できるようなものではありません。

 だからこそ、根気強く、「安全登山・クライミング」の取り組みを続けていこうと思います。手話通訳士の登山ガイドだからこそできること、手話通訳士の登山ガイドだからこそやらなければならないこと、私が登山ガイドになった理由。

 

 

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コメント: 1
  • #1

    里ちゃん‼️ (土曜日, 20 2月 2021 20:50)

    私も2級の聴覚障害なのでよくわかります❗障害者同志の就労所で働いてますが、聴覚障害は、私だけです‼️朝礼の話がわからないのですが紙に書いて教えてくれたのは、3日ぐらいだけです‼️聴覚障害者は、どこでも忘れられやすい障害者だと思います‼️( ;∀;)