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1月17日に想う

 1月17日、もう実体験として記憶していらっしゃらない方も増えてきていますが、この日は阪神・淡路大震災が発生した日です。今年はコロナということもあり、追悼行事が中止・規模縮小されるところが多いようですね。

 今年はまた、東日本大震災から10年目の年でもあります。東日本大震災の災害の規模、被害の大きさは言うまでもありませんが、日本でもこのような巨大な地震が発生し、甚大な被害をもたらすことがあるのだと思い知らされたのは、阪神・淡路大震災のときではなかったでしょうか。

 

 当時私は大学生でした。

 奈良でも相当揺れたので、朝跳び起きて、リビングにあるテレビを真っ先につけに行きました。まだその時は「いつもの地震」の感覚で、いつものように学校に出かけました。

 災害に比較的強い近鉄電車は、遅れながらも動いていました。難波までいつもの通りに行って地下鉄に乗り換えようとしたときに、「いつもと違う」と初めて感じたのでした。

 地下鉄改札はすべてシャッターで閉じられ、先へ進めなくなっていました。

 当時はポケベルすらなく、インターネットもやっと各家庭に普及し出した頃で携帯しながら見られる情報なんてものもありませんでしたので、何が起きているかは分かりませんでしたが、「ただならぬ」気配は感じました。

 多くの人が、公衆電話に列をなしていました。

 とにかく先に進めないと分かったので、私は家に帰るしかありませんでした。

 帰宅後テレビをつけて、言葉を失いました。火に包まれた神戸・長田の様子、横倒しになった阪神高速。信じられない光景が映っていました。

 親戚が芦屋に住んでいました。ワンゲル部の先輩が東灘区に、同期が明石に住んでいました。芦屋の親戚には幸いその日のうちに連絡がついて無事だということが分かりました。のちに、その親戚が言っていたことには、埋め立て地に造られた周りのマンションは軒並み1階が押しつぶされていたり、傾いたりしていたとのことでした。 

 東灘の先輩や明石の同期は、1週間も2週間も安否が分かりませんでした。友達はバイクと船で、明石の友達を探しに行ったと言っていました。

   あの日からもう26年です。私自身は被災者でなく、比較的安全圏の奈良にいたわけですが、当時の映像を見たり、こうやって思い出して書き出すと、胸が締め付けられるような思いを、未だにします。

 

 手話サークルには入っていましたが、当事者や手話関係者がろう者の安否確認に奔走していることは、実は全く知りませんでした。ただ、ろう者が唯一情報源としていた手話ニュースがなくなってしまい、大きな問題提起がなされていることは少し後に知り、同じ年に行ったサークル創立25周年の劇のテーマとするなど、何度もサークルで話題としたことは記憶にあります。

 後に1995年は「ボランティア元年」と言われるようになった訳ですが、私自身も一般の、救援物資の配布の手伝いに、一度だけ避難所に行きました。このときに見た光景は今でも忘れることができません。非常時には、誰かを思いやる余裕なんてなくなるのだということは、よく分かりました。災害ボランティアの活動はその一度だけで、また行こうという気には、私はなれませんでした。

   

 あの日から世の中は便利になり、ろう者も、情報を得やすい社会になってはきました。でも、「避難所のアナウンスが聞こえず、救援物資の列に並び損ねた」「非常アナウンスが聞き取れず、避難できないまま取り残された」といった、命の危険にさらされる状況は未だ続いて、災害が起きるたびに「またか…」とため息が漏れるとともに、怒りを覚えることすらあります。

 確か首相が所信表明で「自助・共助・公助」を強調されていましたね。災害時には「困ったときはお互い様」なんて言っていられないはずです。手話通訳者だって被災者になりえます。「自助」が強調されることなく、公的な部分で、災害弱者を救う取り組みをしっかりしてもらいたいです。ろう者が情報から取り残される可能性があることはもう分かりきったことなのですから、平時からしっかり備えをして欲しいです。今も相変わらずニュースで、いるはずの手話通訳者が消されている状況を見ると、「またか…」と言いたくなる事態が起こるんじゃないかと思えてなりません。この問題は、どうすれば改善されるのでしょうかー。

 他力本願でなく私たちも、改めて当時を思い出し、振り返り、当時を知らない人たちとともに、今できることを考えていかなければなりません。

 

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コメント: 2
  • #1

    井浦、里予 (日曜日, 17 1月 2021 19:52)

    聴覚障害者の方は本当に災害、情報障害者でもあるので皆さんで団結して解決して行きましょう〰️‼️(*≧∇≦)ノ

  • #2

    下村匡史 (日曜日, 17 1月 2021 20:44)

    阪神淡路大震災のあと家内も手話通訳ボランティアで現地へ1泊で応援に行きました。内容は罹災証明書発行の手続き通訳や手話ゼッケンを胸に避難所安否確認など自転車で乗り回ったそうです。全国からも手話通訳ボランティアが大勢駆けつけました。あれからもう26年経ちますが、障害者への対応はまだまだです。何よりも近所付き合いと、ろう協や仲間との情報交換が大事です。